やさぐれ日記

とりとめのない話をしています。

顔色と面白のセンサー

ブログを更新しようとしても500文字くらい書いて、止まってしまう。サボりは癖になる。綺麗に作ろうとしすぎているからかもしれない。だから、短く不格好なものしか書けなくても今日は更新する。完成させる習慣をつけるためにです。

 

 

昨日からラーメンズのライブを見ている。youtubeに公式があげている動画だ。中高生の頃にちまちまと見ていたということもあり懐かしい。

彼らの評価として、アーティスト気取りだとかサブカルが好きそう、というのが多いと思う。名前は知ってるし見たことあるけど、何が面白いか分からない、と友達は言っていた。

その感覚は何となくわかる。けれど、面白いには多様性があり、彼らを楽しむためにはセンサーの置き方が大切なのかなと感じている。

私がラーメンズを見ているのは、言葉、会話のリズムが好きだからだ。また、彼らの生み出す世界観が好きだ。

ただ、見ている理由として最も大きいのはインターネットの影響だろう。なんとなく、インターネットのオタクとして全て見ていなければいけない気がする。みんなが絶賛している理由を知りたいから、もっと理解したいからだ。

とすれば、ラーメンズを通して他人の顔を見ているのかもしれない。けれどそれがダメだとは思わない。

なので、いろいろな面白さを持っているラーメンズをとりあえず全部見ようと思っている。

現段階で残り80本くらいあり、見るのが大変。これは嬉しい悲鳴だ。

 

 

さて、面白いには様々な尺度があるけれど、笑いという面に注目した時、私のセンサーはどうやらバグっているらしいと最近強く感じている。

人が反応しない些細な部分が気になり1人で笑ってしまう。揚げ足取りを脳内でやって笑ったり、現状を俯瞰して笑ったり、なにかを悪意的に解釈して笑ったりする。

存在しない悪意を想像するのは被害妄想にも繋がり危険だ。でも、どうやら染み付いてしまったようで治らない。まあいいかとも思っている。

 

 

そういえば、小学生高学年の頃に、人が笑うことを理解できなくなったことがあった。

というか、笑うことが出来なくなってしまった時期があった。家にいると兄から強くあたられていたことが関係しているのだろう、と今では分かる。機嫌を損ねないように兄の顔色をずっと伺っていた。兄が望んでいない行動をしないように気を配っていたからだ。

 

ただそのせいで、自分の感性を見失った。

 

何を見ても面白くなかった。感動も何もなくなった。でも、普通でいれなくなったことが怖くなって、人をずっと見ていた。どんなタイミングで笑うのか知りたかったのだ。

 

それからみんなに合わせて笑うように意識するようにした。板について意識しなくても笑えるようになったのは中学に入ってからだ。そして、今ではたくさん笑えるようになった。それは本当に幸福なことだと認識している。

そのような経験のおかげで面白いものを感知したいという欲求が強いのかもしれないな、と思った。

 

よく自分だけが拾ってしまう面白いと感じたことを周りの人にも理解して欲しい。価値観を誰かと共有していたい。一人だけで笑っているのは不気味で気持ち悪いし、みんなと分かり合うのはとても心地いいものだから。

 

 

PS:久しぶりに書いたらいつもより少し長くなり、時間は3倍くらいかかった。なんか読みにくい気もする。もっと上手に書けるようになりたいな。