やさぐれ日記

とりとめのない話をしています。

それでは呪いをかけましょう

楽しい日の翌日は精神がダウンしてしまう。

これを私は反動と呼んでいるのだが、昨日は居酒屋で喋り、帰宅してからストロング系のチューハイを飲んだため、今朝起きたときは普段より強い反動がやってきた。

要するに今日は一日中なにもする気が起きなかったのだ。

しかし、ブログというものは何も作業ができない状態でもなぜか書くことができる(というか、うつ状態の方が気持ちが入る)。そういうわけでこのブログのことを思い出し、数か月ぶりに更新しようかと思ったわけである。

 

さて、前置きはこのくらいにして。

と書いてから二日経過した水曜日の午前2時手前、ブログを書くにはもってこいの時間である。というわけで今回は呪いの話をする。

 

人は様々な呪いをかけ合いながら生きている。時に意識的に、時に無意識のうちに。

ここでいう呪いのは様々な形態がある。

例えば、呪いの一つとして祈りの形を持つことができる。

祈りの所作は誰にも伝えずに一人で行った場合は単に祈りであり続けることができる。だが、他人に(特に当事者に)伝えた場合は呪いの形に変化することがある。

 

親と呼ばれる人々がいる。彼らが子供たちに課した期待は親たちにとっては子供たちが幸せになってほしいという祈りの形を持つことが多いが、子供たちにとっては取り消すことのできない呪いに変換される。

「親の期待にこたえなくてはいけない。親が望むように生きなくてはならない。」

子供たちにとって親とは模範解答の一つであるそれを否定するのは至難の業なのだ。

 

また、自分の子供が他人の子供に対して不条理を与えられ、両親が「あの子は馬鹿だから」という言葉を投げかけて子供を慰めようとする場合、子供はその場がどうなるにせよ自分たち自身が馬鹿にならないように努力することを強いられる。

「あの子は馬鹿だから」という言葉は、もしも自分が愚かになってしまえば、両親に「あの子は馬鹿だから仕方ない」と見捨てられてしまうのだと子供に教えたのだ。

親から投げかけられる「あなたは私たちの子供で優秀なんだよ」のような言葉も同様の残酷さを持っている。これらの言葉は定義であり決定事項のようなものだ。私たちの子供は優秀であると定義されてしまえば、子供にとって、優秀でないということはそれすなわち両親の子供でないということを意味してしまう。

子供たちは意識的、無意識的にマリオネットとなる。親が喜ぶように踊っている。もし例え自らの手足を動かす糸に気付いたとしても、そしてその糸が切れたとしても、親を喜ばせるためには踊り続けるしかないのだ。

子供たちは大人になるまでおそらくそのような呪いにかけられている、と私は感じている。

 

 

ところで私は家族の話がしたいのではない。

そのほかの人間関係の話においても呪いをかけることができる、そういった話がしたいのだ。

例えば、貴方が誰かにプレゼントを贈るとしよう。

そのプレゼントがイヤリングなどの装飾品であった場合、これはすぐさま呪いに変換できる。渡すときに私のことを思い出してつけてね、と言うだけで十分だ。

毎日その贈られた装飾品をつけた場合、それ自体に込めた想いも毎日受けることとなる。イヤリングをする度に相手に思い出させること、これが呪いでなくて何だというのだ。そのようにして私たちはプレゼントを贈る時、意識的にしろ無意識的にしろ相手に呪いをかけているのだ。その品物を見たときに私のことを思い出せ、と。

 

それ以外にも言葉で呪うことももちろん可能である。

その方法は簡単で好きなものを伝えるだけで十分なのだ。

私は〇〇が好き。それを相手に刷り込ませる。期間限定のものであったり、その際に相手と関連したエピソードを持たせることができれば呪いはさらに強くなっていく。

例えば、花の名前。金木犀などは秋にしか見ることのない花であり名前であるが、金木犀が好きだと強調し、相手に伝え、金木犀に関して相手とエピソードを作り出す。

そうするだけで、相手は呪いにかけることができるのだ。

相手は金木犀を見かける度に貴方のことを思い出すようになる。貴方のことを秋になる度に思い出すようになる。感傷的な気持ちを植え付けることができる。

 

メンヘラ、と俗に呼ばれる人々は貴方が〇〇しなかったら死ぬと言うことで相手の行動を制限し、望みどおりに相手を動かせる呪いをかけることで知られている。

そして、この技ももちろん便利なので覚えておいた方がよいのかもしれない。

この技を用いる場合、わざわざ、死ぬと言い切る必要はない。貴方が〇〇したら/しなかったら私は悲しむ。とこれを繰り返し強調するだけでよいのだ。

学習性無力感というものがある。犬猫を電気網の中に入れ、網から出ようとするたびに電流を流しそれを妨げることで、逃げようとしたら電流で痛めつけられると学習させ、実際にはそのようなことが起きないという状況に変更されても網から出ようとする挑戦ができなくなっている、というものである。

人間は賢い。だから、痛みを与える必要はない。ただ私が悲しむと貴方も悲しむ、ということを繰り返しそれとなく説得するだけで十分だ。もしくは、相手は特定行動がとれないよね、と確認をする。人間は自分の発言との一貫性を気にして身動きが取れなくなることがあるから確認をし頷かせるだけで優しい人間の場合は十分に縛ることができる。更に、〇〇したら私は悲しむ。というとより一層、相手の行動を封じることができる。

 

 

以上のことは人々がそれとなく使っている呪いである。

ほかにもパンチラインで印象的に相手のことを打ちのめすことで呪いを植え込むことができるのだが、これは運の要素が大きく意識的に使いにくいものなので省かせていただいた。

 

 

なんてふざけたことを書いたが、上記のことは全て詭弁だ。

ただ、この文章を読んだ貴方が何事にも呪いの要素を感じてしまうような苦しい呪いがかかってくれたらうれしいなって。

解く方法はしらないけど。

 

さて、それじゃあ、今日も呪いを、自分の感情を相手に伝えるために呪いをかけあいましょう。

好きだと伝えるために、忘れさせない呪いをかけてあげましょう。

嫌いだと伝えるために、不快になるような呪いをかけてあげましょう。

好きだと伝えるために、逃げられないように呪いをかけてあげましょう。

 

なんだかそれってとっても素敵なことだと思うから。

働き体験感想

インターンに来て社会経験をしている。同世代の95%は大学院に行かないらしいので、今頃になって社会に出ているのは珍しいのだろう。

今日で2日目であるが、これをみんなが当然のものとして受けとめ、仕事をこなしていることが恐ろしくてたまらない。

労働が苦痛なのではなく、時間のなさが苦痛なのだ。

 

仕事が終わり、家に帰り、帰宅してから毎週更新のものを楽しみ、積もった予定を消化していると23時になっていた。

明日も朝から仕事があるのでもう眠らなければならない。それ自体は別にいいのだ。朝起きて会社に向かう。今日も明日も昨日と同じように過ごすのだろう。そして、会社に勤めることになるとこれを繰り返すだけなのだろう。

 

時間が全く足りないのだ。生きていくために仕事をしなければならないのに、仕事をするだけになってしまえば生きている意味なんてなくなってしまう。

そしておそらく忙しさに慣れてしまうと、生きている意味を考える暇などなく定年退職まで突き動かされるのだろう。社会に人生を消費されている。

僕にとって生きる、それだけでは駄目なのだ。様々なものに触れ、思いのままに生きていたいのだ。

 

1時間の昼休憩もすぐに終わってしまう。そもそも会社にいる間に心底から休憩など出来ないんじゃないだろうか。ああ、歯車とはこういうことなんだ。思考は全く必要ないんだ。

 

ひどく眠い。もう少ししたら午後からの業務が再開する。アラームが鳴ると眠い眠くないに関わらず目を覚まさなければならない。

僕達を支配しているのは僕達自身ではなく、もっと他のなにかだ。好きなように生きるとは難しいことなのだろう。これを人生の目標に掲げてみてもいいかもしれないな。

 

それでは。

今年もやってくる

クリスマスが近づいている。今年もやってくるんだ。幸せな人をさらに幸せにするメロディがお前はどうだと急かしている。負けないぞ。

 

おそらく僕は好きな人がいるけれど、それが本当かどうかは分かっていない。人を好きになったのではなく、なんとなく焦りを感じているだけかもしれない。

そのような不安定な状態で、まるでクリスマス需要に合わせるかのように告白する、なんて絶対にしたくない。それは相手に対して失礼だと思うし、振られたくないし、振られることで今の関係を壊したくないからだ。

 

恋愛なんて二度としたくない。自分を傷つける可能性のある行為をなぜしなくちゃならんのだ。幸福か不幸かの弾丸が詰められたロシアンルーレットの引き金を引くほどの価値が恋愛にはあるのか。ぼくは反恋愛主義に立つぞ。

 

 

今から死の話をします。

僕は睡眠のことを死の疑似体験だと捉えているのだけれど、本当に死が睡眠のようなものであるなら全く怖くないんじゃないかと気がついた。

睡眠中、中でも夢を見ていない状態の時、僕らは虚無になっているはずだ。身体には五感が絶え間なく存在しているかもしれないが、魂は何も感じていない。しかし、睡眠中にその状況が恐ろしく感じることは全くないのだ。

そして、死も同様に考えれば、死んでいる状態は当人にとって全く恐ろしくないことなのでは、と考えた。恐れを感じることすら不可能であるから。

なので、自分自身の死の体験は怖くない。

それによって、二度と何かを感じることが出来なくなってしまうことを今まで経験していないから恐れるだけであって、実際に死となれば思考など存在しない。無に帰る。これは今の僕にとって救いとなるかもしれない、とすら考えている。

しかし、今まで生きることで得た関係性が僕の独断の死に対して、なんの感情も抱かないことは無いだろう。おそらく、死によって他人を傷つけることになるはずだ。他人を意識的に傷つけてはならない、これは僕にとって大切なルールのひとつだ。

だから、自分から死を選ぶことはしない。しかし、死に選ばれた場合、それは決して僕にとって悲しいことでは無いはずだ。悲しいと思うことすらないのだから。

 

 

遺書みたいになってしまったが、自発的に死を選ぶことはないです。大丈夫。今日も生きる。

忘れず受け入れろ

今日は 酔っているのでめちゃくちゃです。

以下は感情の羅列。

 

自分のことがよくわからない、22年も生きているのに、だ。

自意識が強くて上手に生きることが下手でやってきた、これに気づいたのは最近になってからだ。

 

よく生きる意味を考える、その延長で死についても考える。死ぬことは恐ろしいことだと感じることが多い。今日はそうではないけれど、普段は死が怖くてたまらない。消滅することが怖い。

でも、きっと人の死はそんなに怖くないんじゃないか、と思ってしまう。それは肉親であっても。不便になるけれど、他人の存在の消滅自体にひどく悲しむことがないように感じている。

死んで欲しくはないが、受け入れてしまうのだろうと達観している節がある。自分の死も同じように受け入れたい。

 

そのように人の死について対して強い感情を抱いていない僕ではあるが、みんなからどう思われているかは常に気になっている。何度も何度も書いているが、人に嫌われたくない。できれば好かれていたい。

他人に承認されることで自分を肯定したい、手段のひとつとして認識しているのだろう。だから、知っている人が苦しんでいたら助けてあげたい。これはエゴでしかない。

自分が苦しんでいる時、同じように助けてくれる人はたぶんいない。SOSを出さないと思う。死にかけていることをいかに笑い話にするかに注力して、さも笑い飛ばして欲しいかのように語ってしまうだろう。

 

世界、僕にとっての世界はみんなのことだけど、世界にとってぼくは無価値だ。それが苦しいことでありうれしいことでもある。

個人的な関わりで人に迷惑をかけたくない、恋愛なんて二度としたくない。愛されていないことを常に自覚していたい。未来のぼくには忘れないで欲しい。愛されていない。愛などない。ただ生きているだけ。その事実を受け入れて生きていることを。

今日の考えをツイートでお送りします

・ツイートをする場をひとつ消したので代用として今日はブログでツイートを行うことにした。これも表現欲求と言っていいのかな。誰かに聞いて欲しいだけなのかもしれない。

なんらかのアカウントでツイートしているものも含むけれど、それは気にしないでください。

 

・土曜日、空虚である。何か面白いことがないかなと他人任せな気持ちになっている。

 

シャニマスにハマっている。ゲームをしているとその中で、わたしという存在は完全に無視されており、それに没入することで自己を消すことができる。これがとても心地いい。その点で漫画や映画も好きだ。

 

・死への恐怖がある。おそらく死ぬことにより解放されるが、その1歩を踏み出す気にはなれない。なぜ死なないとならないのか。わたしは死んだことがないから分からない。分からないまま全ては進む。

 

・何度も言ってるけれど、全てのことはなにかで例えられると思っている。

それは、野球で、数学で、散歩で、料理で、落語で例えることができるはずだ。あらゆる物事のうちのなにかは全てを内包しており、また別のなにかも全てを内包している。想像力はほとんど何もかもを超越する力を持っている。

 

・抑圧された苦しい状態の方が詩が書ける、と気づいた。死が眼前に迫ったその時に わたしは生きていたいと渇望できた経験が何度かあるが、それと同様のものだろう。

 

・去るきみに まとわりつけと 吐くけむり 貴方らしさよ 消えてなくなれ

 

現代思想の最新号では反出生主義をテーマとしており、興味があったので読んでみた。反出生主義に興味が無いことがわかった。

(現代思想の内容だが、反出生主義に関するベネターの和訳があり興味があれば一読してみれば主張が分かるようになっている。感情としては理解できるものの論理が弱い。またその反論もベネターの主旨を取り違えたものが多く観点として目新しいものはなかった)

 

・ある個人に対する愚痴を延々と言うのはダサい。それは自分の価値を下げることになるから、注意を払って欲しい、とTwitterを見て思った。でも、自分の嫌いを無くすことはしないで欲しいから、それは胸の中で大切にしているべきなのかな。

嫌いを失うような心持ちで生きることをしていると気付かぬストレスに心をやられてしまうことがある。これはつづ井さんがノートで書いていた話と同じような意味です。

 

・週に5個のペースで焼き芋を食べている。焼き芋は冷やすと甘みが増して、またカロリーも減るらしいと知り、やってみるとたしかに美味しさが増して良かった。

けれど、焼きたてで温かいものを食べたい気持ちの方が強い。冷たい方が確実に美味しいのに不思議だ。きっと、熱には魔力がある。

ちなみに、毎回さつまいもの水洗いが足りてなくて、少し砂のある状態で食べている。野生み溢れる食生活。

 

・自分はどういうキャラクターなのだろうか、と大学の後輩がよく嘆いたり、キャラ付けに足掻いたりしている。

私としては、この私という存在そのものが唯一無二であり、私にとって最もよく馴染んだキャラクターであるのに、なぜ自分を鋳型に押し込んで分かりやすくしようとするのかが理解できない。

また、自分を分かりやすくしてしまうと面白くない人間(ありふれた存在)になってしまう気がするのだけれど、みんなは違うのだろうか。ファーストフードのように消費されることは恐ろしい。そう感じるのは一般的ではないのかな。

 

・昔よく通っていたパン屋を久しぶりに訪れるとパンのサイズが小ぶりに、値段は大ぶりになっていた。昔と変わらず美味しかった。バターとか油とか多く摂取すると体に悪いものは美味しいね。

 

・パン🍞出生主義

 

時間が怖い

ハロウィンも終わり十一月も中頃になった。年の瀬も間もなく訪れるのだろう。

時間は決して加速しないが、日常は猛スピードで駆け抜けていく。

夜がだんだん長くなり、暑さで失っていた孤独を取り戻す。夏の大らかで優しく暖かで美しい夜から、無関心で厳しく冷淡で美しい夜へとすがたを変えていく。そんな季節の境目が未だと感じている。

 

 

時間が経過する、ということはひどく恐ろしいことだ。僕らは過去を積み重ねて、振り返ることができるという罰を受けている。過去の思い出が生きる希望となることもあるが、それよりも絶望としての威力の方が高いのではないだろうか。僕らが切に消えたいと願うのは、未来に希望がないと嘆くのは、過去の思い出が存在することのせいだ。

また、思い出はいつか風化するから消えたいと嘆いたことを忘れて人は今日を生きることができる。けれど、それも僕にとっては恐ろしいことだ。

 

過ぎ去っていくものが増えていく中で、かつては持っていた感受性が気づかないうちにすり消えてしまっていた。きっとそれは僕だけではなく、みんなそうなのだろう。

 

少年と呼ばれて差し支えのなかったころ、一人でお風呂に入ることが怖かった。風呂という閉鎖空間の中で自分だけが家族のいない異世界に来てしまい、リビングにいたはずの家族は誰もいなくなってしまっているんじゃないか、という妄想に取り憑かれていたからだ。それが今となっては、何の支障もなく一人で一日を過ごすことすら出来る。

これを成長だと社会は認めるだろうし、普通のことだというのだろうけれど、僕には感受性の欠落に思えてならない。

 

慣れに麻痺させられて、本当に怖かったその時の感覚を思い出せなくなってしまう。些細なことで傷つかない鈍い人間になってしまう。それが本当に成長なのか。僕は恐怖感ですら、その感情を失いたくなどなかった。きっとこれからも時間が経つにつれて、様々な感情を落としていってしまうのだろう。新しく受け取れるものはいくらでも欲しいけれど、今の僕の中にあるものは何一つ失いたくなんかない。

けれど、時間はそれを許さない。決して速度を緩めることなく、時計の針は進んでいく。

天体観測

今日はハロウィンだ。イベントごとの度に浮かれるのが好きなので1日なんとなくワクワクして過ごした。非日常は刺激的で心にいい影響を与える。

 

とはいえ、何もないただの日常だったからだろうか、大学から駅まで向かう道を歩きながら、街頭で照らされた夜空を見て少し感情的になっていた。

空には三日月が浮かんでいて、その対面近くには燦々と輝く星があった。そして、その月と星の延長線上に星がもうひとつ。それは一直線上に並んだ3つの天体だったけれど、ぼくは三角関係を連想した。

離れた位置にある星は、月と輝く星を眺めている。そのふたつがとてもお似合いで美しいから近づけやしない。それがどういう目的であったとしてもだ。

そんな三角関係を空想しながら夜道を歩いて、ふと気づく。一直線上にしか見えない星と月はそれぞれが途方もなく離れていることに。

そして最も月に近いのは星ではなくて、この僕なんだ、と。

傍から見ているつもりで全く気づけないことが世の中にはいっぱいあるのかもしれない。他人事だと思っている全ても身の上話でしかないのかもしれない。そんな繋がりを感じて、ふと寂しさがなくなった。駅のホームでは女の子が2人で一舟のたこ焼きを分け合っていた。それがとても日常的で嬉しくなった。