やさぐれ日記

とりとめのない話をしています。

境界線に立って

今日は好きな女の子と遊んでいた。

友人として好きなのか異性として好きなのかは自分でも分からない。けれど、彼女とふたりで遊ぶのはもう3回目だから自分の中で結論を下すべきなのかなとも思った。

遊んでいて気づく、彼女は僕に全く興味がない。それは前に会った時も気づいていたのだけれど、それを今日も強く感じた。そう思うともうだめになった。友人としてだろうが恋愛対象としてだろうが、代替品でありたくないから。

 

今日もとても楽しく過ごせた。彼女もきっと楽しかったとは思う。けれど、彼女の相手が僕である必要は無いのだ。

僕は人より強い承認欲求を持っているのだと思う。そして、自分に何も興味が無い人間と関わっていたら少し苦しい。今日は解散してから特に苦しい、というか空虚だったからブログを書くことにした。彼女のことが(友人か恋人かは不明にしろ)好きだからだ。

 

デートの3回目は告白をすると何かで見た事がある。でも、僕には告白という行為が出来る気がしない。相手から好かれているか分からないのに、告白なんてできるとは思えないのだ。そして、自分が相手を恋愛として好きなのかわかってないならなおさら無理なことだ。

 

付き合いたいという烏滸がましいことは思わない。僕に男として、人間としての魅力がないことは自覚している。

ただ、彼女との関係が切れてしまうことが怖い。3回とも僕から彼女を誘った、友達としても片想いなんだろう。片想いを続けるのには体力がいる。今はもう、たぶん、ダメなのだという気分になっている。

夢のような世界にずっといたい。僕が好きな人たちには同じように僕を好きでいて欲しい。しかし、これは欲張りすぎなのだろう。

1歩ずつ前を歩く。これからも前を歩く。生きる、と自分に言い聞かせる。消えてしまいたくならないように。魅力がないのは僕の悪いところだけど、いつか誰かと生きる未来を信じて、これまで通りに、1歩ずつ前を進む。

Loveが大暴れだ、恋愛かどうかは分からないが、いつも、大暴れだ。また明日から忙しい毎日に戻る。人生なんかに負けない。がんばる。

 

それでは、また。

顔色と面白のセンサー

ブログを更新しようとしても500文字くらい書いて、止まってしまう。サボりは癖になる。綺麗に作ろうとしすぎているからかもしれない。だから、短く不格好なものしか書けなくても今日は更新する。完成させる習慣をつけるためにです。

 

 

昨日からラーメンズのライブを見ている。youtubeに公式があげている動画だ。中高生の頃にちまちまと見ていたということもあり懐かしい。

彼らの評価として、アーティスト気取りだとかサブカルが好きそう、というのが多いと思う。名前は知ってるし見たことあるけど、何が面白いか分からない、と友達は言っていた。

その感覚は何となくわかる。けれど、面白いには多様性があり、彼らを楽しむためにはセンサーの置き方が大切なのかなと感じている。

私がラーメンズを見ているのは、言葉、会話のリズムが好きだからだ。また、彼らの生み出す世界観が好きだ。

ただ、見ている理由として最も大きいのはインターネットの影響だろう。なんとなく、インターネットのオタクとして全て見ていなければいけない気がする。みんなが絶賛している理由を知りたいから、もっと理解したいからだ。

とすれば、ラーメンズを通して他人の顔を見ているのかもしれない。けれどそれがダメだとは思わない。

なので、いろいろな面白さを持っているラーメンズをとりあえず全部見ようと思っている。

現段階で残り80本くらいあり、見るのが大変。これは嬉しい悲鳴だ。

 

 

さて、面白いには様々な尺度があるけれど、笑いという面に注目した時、私のセンサーはどうやらバグっているらしいと最近強く感じている。

人が反応しない些細な部分が気になり1人で笑ってしまう。揚げ足取りを脳内でやって笑ったり、現状を俯瞰して笑ったり、なにかを悪意的に解釈して笑ったりする。

存在しない悪意を想像するのは被害妄想にも繋がり危険だ。でも、どうやら染み付いてしまったようで治らない。まあいいかとも思っている。

 

 

そういえば、小学生高学年の頃に、人が笑うことを理解できなくなったことがあった。

というか、笑うことが出来なくなってしまった時期があった。家にいると兄から強くあたられていたことが関係しているのだろう、と今では分かる。機嫌を損ねないように兄の顔色をずっと伺っていた。兄が望んでいない行動をしないように気を配っていたからだ。

 

ただそのせいで、自分の感性を見失った。

 

何を見ても面白くなかった。感動も何もなくなった。でも、普通でいれなくなったことが怖くなって、人をずっと見ていた。どんなタイミングで笑うのか知りたかったのだ。

 

それからみんなに合わせて笑うように意識するようにした。板について意識しなくても笑えるようになったのは中学に入ってからだ。そして、今ではたくさん笑えるようになった。それは本当に幸福なことだと認識している。

そのような経験のおかげで面白いものを感知したいという欲求が強いのかもしれないな、と思った。

 

よく自分だけが拾ってしまう面白いと感じたことを周りの人にも理解して欲しい。価値観を誰かと共有していたい。一人だけで笑っているのは不気味で気持ち悪いし、みんなと分かり合うのはとても心地いいものだから。

 

 

PS:久しぶりに書いたらいつもより少し長くなり、時間は3倍くらいかかった。なんか読みにくい気もする。もっと上手に書けるようになりたいな。

秋、窓辺、深夜の感情

不安と共に過ごした9月と共に夏が過ぎ去り、ようやく秋だと断言出来る時期になった。
ぼくは今日のような気温が一番好きだ。夏は暑すぎて億劫になるし冬は寒さで怖くなってしまうから。

 


さて、関係の無い話をする。

ぼくは対等な関係は存在しないと思っている。先輩や後輩、スクールカーストといった分かりやすい違いではなくて、お互いに友人だという共通認識を持った者同士や恋人同士であっても、ある人の感情ともう1人の感情がつり合うことなどありえないからだ。そういう意味で人間は常に孤独な生き物である、と考えている。

 

では、もしそうだとして、何の問題があるのか。いや、あるのだ。僕は対等関係が存在しないことを苦しみの根源のひとつだと認識している。もし、他人の感情を全て数値として常に読み取れる世界であれば対等がありえないことは僕にとって今ほど大きな苦しみの種になっていないだろう。

なぜなら、それはおよそ仕方の無いことだと割り切る作業が、現在の世界よりも簡単であるからだ。しかし、現在の僕が認識している現実の世界ではそうはいかない。

他人の感情は言葉や態度から見える表層的な部分から読みといていくしかなく、また厄介なことに人間には嘘をつく能力がある。嘘のつける他人のことなど何もわからない、分かるわけがないのだ。

 

そしてさらに厄介な事として、自分の感情さえ数値化されることは無いため、自分で自分が分からないといった最悪な現状に身をおかされている。そのせいで、器用に生きるのはめちゃくちゃ難しい。自分さえ理解できないという孤独が常に身を蝕んでくる。

 

それでも、生きていかなければいけない。生存はぼくが自分に課した最も重大な義務だから。僕は孤独と向き合うといつも消えてしまいたくなる。孤独はとても悲しい。だから、孤独を感じないために、自己肯定のための道具を求めている。絶対的な愛による庇護を求めている。

スイッチが増えていく。

offからonにスイッチを切り替えるようなイメージをする。モチベーションを生むための自分なりのやり方のひとつ。

これは人と話す気分じゃない時に友達と遊ぶ時などにも使っている。想像は力強く、気持ちを変化させる。やる気スイッチは想像した自己の内にある。

 

ただ、スイッチが常に入りっぱなしとは限らない。突然offになり、無気力に包まれる。人といるのに孤独を感じたり、唐突に誰とも話したくない気分になりテンションを合わせる努力をやめてしまう時がある。

 

今ふと思ったことだけど、これは唐突に感情が発生しているのかもしれない。

 

さっき大学から見える夜景が綺麗だなと久しぶりに思った。そして阪急電車に乗り込む。先程の夜が嘘みたいにやけに明るい車内で、文明を強く感じた。今まで無視していたものが強烈に捉えてしまう感覚をスイッチだと思い込んでたのかな。だから、内側に潜む感覚を思い起こす作業のことをスイッチと呼んでいるのかも。

もし、そうだとして、ならば、なぜ普段スイッチを切っているのだろうか。情報がありすぎて遮断する必要性に駆られている?そういうことにしておこう。

 

スイッチは人それぞれで、それにより生じる電力量も人による。だから、他人には感じられないものに強く固執する人がいる。電源は訓練によって強くすることが出来るから、成長するにあたり供給できる電力量が増えていく。

そして、スイッチもどんどん増えていく。

何か新たな配線を引く時に、元々自分の中にあった配線のことを忘れてしまい、スイッチが入らないようになる。全体の消費電力を減らすため。

 

人と会う時に使う消費電力はかなり高い。しかし、人に会うことは同時にほかの電源の充電をかねているのかもしれない。でも、たまに充電とならずに電力を浪費し放電するだけの状態になってしまう。

そのことをスイッチが切れたと思っていたのかな。もっと上手に自分のスイッチをいじれるようになりたい。

 

PS:これは人にあまり伝わらないような文章だけど、ブログを更新したいので公開しておきます。

 

忘却とケーキ

2週間前に遊ぶ約束をしていた相手が約束したことを忘れてしまっていたらしく、私はそのために一日を空けていたので暇になってしまった。遊ぶことが決まった日からかなり楽しみにしていたのでとても悲しかった。なので、ブログを書く。

 

私は昔から何度かドタキャンというものにあっており、その度にかなり嫌な気分になっているのだが、ここ5年くらいはそれに遭ってなかったので懐かしい感覚があった。

 

前回受けたドタキャンは、好きだった女の子とのクリスマスデートだ。12月に入ってすぐに勇気を振り絞って誘い、なんと2人で遊べることになりとてもうれしかったのを覚えている。

1週間前からウキウキして、ドキドキして、緊張して、何を話そうかとずっと考えていた。クリスマスイブの夜中に、その女の子からLINEが来て、「やっぱり明日は行けなくなった、ごめんね。」と連絡があった。梅田駅から4時間かけてとぼとぼと徒歩で帰り、その後に1人でケーキを作った。味は覚えていないけれど、ケーキを作っている間は無心になれた。

その後もなにかしらは数度あったけれど、結局その子と付き合うことはなかった。あの頃は異性に対して下手な振る舞いしかできず(今なら上手に振る舞えるかは怪しいが)、必死で気持ち悪かったのだろう。だから、高校生活をやり直せるなら、と今でも思う時がある。

以上、回想終わり。

 

今日会う予定だった人は仲良くなりたいと思っていたのだけれど、その人からすれば私など取るに足らない存在だったのだろう。人は忘れられた時に死ぬとはよく言うことだが、その理論に則ると私はその人の中で既に死んでいたのだ。忘れていたと連絡があり、その後に、また別の日に会いましょう。とお互いに言ったけれど、その時に予定を決めないことが全てを表していた。仲良くなるのは難しいけれど、諦めるのは簡単だから簡単なことをしようと思う。空虚な一日になってしまったものだ。サヨナラだけが人生らしいので、今日はひどく人生じみた一日だ。

 

私は今でもその人と仲良くなりたいと考えている。だけれど、まあ、また機会があれば会いましょう。それでは。

高速道路のバス車内

高速道路のバスの窓から下の路地を眺める。必死に自転車を漕ぐ子ども、コンビニから出てくる老人、歩き煙草をする金髪。そこには社会が形成されている。私は彼らよりずっと速くバスで彼らの頭上を駆け抜けていく。社会を吹き飛ばす感覚になり、少しいい気分だ。

 

私は下に広がる社会をぐんぐんと超えていく。しかし、私と同じ社会の中で、私が乗っているバスは遅い方だ。他の車が次々とバスを抜かしていく。置いていかれている気持ちになる、しかし私にアクセルを踏む権利はない。

 

きっと私の遥か上空では、航空機が地上を見下ろしながら、感慨もなく物凄い速さで私を追い抜いていってるだろう。私の数十m先を行く時速100kmは出ているであろうあの軽トラックも私と同様に置いてけぼりにされる。航空機からすれば、高速道路上や路地などといった目に見える景色が全て地上の社会だ。そこに高速道路や路地といった区別はない。

ただ、今日は曇り空で、航空機は見当たらず、灰色に包まれて安堵する。あと目的地までどれくらいなんだろう。バスに揺られる。

鬱屈とした感情、便所の落書き

今回はたくさんのツイート群のようなスタイルです。

3,4日前に書いたものと今日書いたものの合併号です。

 

・昨日気づいたこと

 

Twitter精神疾患とか鬱とかを抱えている人のツイートを見るのが好きなんたわけど、あれって自分もそうだから共感しているだけなんじゃないかな。お気持ちクリニックに行ったことがないので分からないけど、何となくそんな気がする。

 

タバコを吸っていて、体に悪いのでやめた方がいいなと思っている。でも、ルーティンになっており、きっかけがないとやめないんだろうね。それでも強い中毒になりたくないから口腔喫煙にしていたのだけど、昨日夜歩いている時に肺に落としてみたらとても美味しかった。今度から肺喫煙とのハイブリットでハイになる。いつもなにかのタイミングを待ちながら生きている。

 

たまにトラックに轢かれたくなる。半身不随になってカゲロウデイズの歌詞ツイしたらウケそうじゃん。

 

思う、考える、気がする、感じるという言葉を使ってしまいがちで、悪いことじゃないけど控えていこうと思った。柔らかい表現にして感情から逃げている気がしたし、それをやめたいから。

 

読み返すとたくさん使ってた。控えたい。

 

精神が不安定で1人の時に、お酒に頼ると半端ない自己嫌悪がやってくるのでやめることにした。ODもしようと思ってたけど、たぶん同じようになるのが目に見えているので風邪薬コーナーに行くのもやめる。ぼくに自傷癖がなくてよかった。リストカットを初めてした人は本当に苦しかったんだろうな。苦しくても全く自傷しようとは思わないから。

向精神薬精神安定剤眠剤等を常備したいけれど、手に入れるための手順を踏むのが億劫で仕方なく、しかしなんとかしたいので、大きいぬいぐるみを買うことに決めた。今度買います。

 

弱った喫煙者がタバコの量2倍になったってよく言ってるの見かけるけどあれ本当ですね、注意していきたい。1日1箱空けちゃうようにはなりたくないな。

 

ぼくと関わってくれる人がみんな優しくて本当にありがたい、ここをぼくのエデンとします。本当にみんな幸せに生きてください。消えないでください。

人生どんどん優しい人が増えてきてありがたい限りだけど多分この辺で頭打ちだろうな。未来がこわい。

 

優しい人を気どってるけど自分の性根はめちゃくちゃ最悪で、他人を喜んで傷つけて悦に入る所がある、マウンティング行為をすることがある。他人がやっていて不快な事をやっていいはずがなくて、自分の最悪を自覚して落ち込む。これはやめたいではなくて絶対にやめることです。

 

 

ここまでが四日前くらいに書いた文章ですね。ここからは本日の文章です。

 

ぼくは全ての人間を愛しているのだけれど、これは多分そうすることで他人にもぼくを肯定して欲しいっていう願望から来てる。社会にとって自分が不要であるので、せめて自分で自己を必要としないと生きていけない。

 

ODしないとか書いた翌日にブロンがぶ飲みしたんだけど、薬物乱用危険だなと思ったしハマる理由も理解出来た。不安が全て消えて安心感に包まれるのだ。翌日は虚無が訪れた。二度としない。

 

趣味のために生きてきたと思ってたんだけど、今週のジャンプすら読む気力がない。日常生活は送れるが、本当にそれだけでこわい。こんなんで社会に出されるとか考えたくもない。

 

真っ当に生きられない女に会って、首を絞めてもらった。喉は触らないで両手の平で頸動脈を押さえつけられ息が出来なくなる。ブラックアウトしそうになり意識しないと飛んでしまう。とても苦しい。離されてから呼吸音が大きくなり、手に血が通っている感覚を味わえた。今日も生きているな、と思った。

 

ぼくは普通に生きていける気がしているし、普段通りだと思っているけれど、そうではないのかもしれないとも思う。

 

弱っていることばっかり言うと人から嫌われてしまうからやだな。心配するのは体力がいるし気を遣うのは面倒だから他人に弱さをバレちゃいけない。しっかりと強い殻を被る。人から嫌われたくないからそうする。

 

漫画を読む元気はないけれど音楽は勝手に耳に入ってくるからたくさん聴いている。あと、自律神経を治したいから沢山散歩している。外はとても綺麗で日光に照らされると元気が出る。

 

読み返すとか言ってたけどやっぱり今日はいいや。

 

好きな人たちがいるから今日も生きていける。みんな本当に好きで幸せになって欲しいと心から願っている。僕たちは絶対に救われなきゃダメだから天国を信じる。神様も信じたい。