やさぐれ日記

とりとめのない話をしています。

今年もやってくる

クリスマスが近づいている。今年もやってくるんだ。幸せな人をさらに幸せにするメロディがお前はどうだと急かしている。負けないぞ。

 

おそらく僕は好きな人がいるけれど、それが本当かどうかは分かっていない。人を好きになったのではなく、なんとなく焦りを感じているだけかもしれない。

そのような不安定な状態で、まるでクリスマス需要に合わせるかのように告白する、なんて絶対にしたくない。それは相手に対して失礼だと思うし、振られたくないし、振られることで今の関係を壊したくないからだ。

 

恋愛なんて二度としたくない。自分を傷つける可能性のある行為をなぜしなくちゃならんのだ。幸福か不幸かの弾丸が詰められたロシアンルーレットの引き金を引くほどの価値が恋愛にはあるのか。ぼくは反恋愛主義に立つぞ。

 

 

今から死の話をします。

僕は睡眠のことを死の疑似体験だと捉えているのだけれど、本当に死が睡眠のようなものであるなら全く怖くないんじゃないかと気がついた。

睡眠中、中でも夢を見ていない状態の時、僕らは虚無になっているはずだ。身体には五感が絶え間なく存在しているかもしれないが、魂は何も感じていない。しかし、睡眠中にその状況が恐ろしく感じることは全くないのだ。

そして、死も同様に考えれば、死んでいる状態は当人にとって全く恐ろしくないことなのでは、と考えた。恐れを感じることすら不可能であるから。

なので、自分自身の死の体験は怖くない。

それによって、二度と何かを感じることが出来なくなってしまうことを今まで経験していないから恐れるだけであって、実際に死となれば思考など存在しない。無に帰る。これは今の僕にとって救いとなるかもしれない、とすら考えている。

しかし、今まで生きることで得た関係性が僕の独断の死に対して、なんの感情も抱かないことは無いだろう。おそらく、死によって他人を傷つけることになるはずだ。他人を意識的に傷つけてはならない、これは僕にとって大切なルールのひとつだ。

だから、自分から死を選ぶことはしない。しかし、死に選ばれた場合、それは決して僕にとって悲しいことでは無いはずだ。悲しいと思うことすらないのだから。

 

 

遺書みたいになってしまったが、自発的に死を選ぶことはないです。大丈夫。今日も生きる。