色々と変わっていく
直近の三か月半を整理する。
好きな人に告白した!→恋人ができた!→恋人に振られた!
悲しい……。
ブログは先月に何度か更新しようかと思ったが、このブログには元恋人を想起させる要素が多分に含まれており、元恋人を想う度にどうしようもない寂寥感に苛まれたため、未練まみれの状態で書いて更新することなど土台無理な話だった。
だが今は、彼女に対して未練がないとまではいかないが、思い出すことも少し減り、別れた直後のように感情が抑えつけれず不安定な気持ちで歩き続けることもなくなった。
本当に、時間とは万能の治療薬である。
HUNTER×HUNTERでクラピカは自分の気持ちが風化することにのみ恐れると言っていたけれど、感情とはおそらく意識をしなければ、どんどん薄れていき、やがて透明になりそこにあったことすら忘れるものなのだろう。思い出も同様に消えていく。
そして、私たちは忘れられるから生きていけるのだろう。それならば、PCの中にあるファイルを削除するように、1から0へ簡単に移行できればいいのだけれど、人は機械ではないから薄れるのを待つしかない。時間は突然進まないからゆっくりと待つ必要がある。削除はできず早く薄れることを祈る他ない。
だが逆に、私はそのおかげで、薄くなった思い出を忘れないように元の色を復元し、そして自分でも気づかぬ間に少しだけ自己都合で脚色し、都合のいい思い出にして保存することもできる。
だから私は貴方のことを忘れずに、けれど私の都合のいいように変換して、貴方のことを保存し続けるのだろう。
そんな風にして貴方も私のことを時折思い出して欲しいと今は思う。
さて、ところで今日はこのように元恋人の話がしたいわけではない。
私の中にある偏見の話を書こうと思ったからブログを開いたのだ。
私は、ある分野で才覚を発揮する人、特に言語を用いた文化的な素養のある人(例えば、日常会話が面白い人とか創作での構成や文章が上手な人とか知識が豊富である人とか)に対して、勉学面での頭の良さも素晴らしいものであると思い込み、また勉学が優れていないとあまり納得できずにサボっていたのだと判断する悪癖がある。
これは酷くくだらない価値観であり、唾棄すべきものだ。
そもそも、勉学面等の様々な所要で私が割いた時間と比べると、一つのことに多くの時間を割いた方が、ゲームのスキル振りとしては特化するに決まっている。
また、勉学ができないけれど言語を用いた文化的な素養があることは、全く矛盾せずに共存できることであるのに、それを私は心底から納得できていないのだろう。
そのことを治したいと考えてはいるが、なかなか頭の良さを神聖視することを治せないでいる。
頭が良い(そもそもこの言葉は意味の取りうる範囲があまりに広く皆が曖昧な定義のまま使っており、使用を避ける方が好ましい言葉だと思う)から他の分野でも素晴らしい才覚を発揮できると思ってはいないが、言語面で文化的な素養がある人は頭がいいと思ってしまっている。
現在は、様々な価値基準を持ち、偏見なく物事に触れることを要求される時代へとここ数年で急激に変化しているはずだ。
私はこれをいい変化だと思っている。
これに肖って私の中にたくさんあるだろうつまらない価値観を取り除いていき、優しい価値観を選んでいきたい。
このめまぐるしく移ろいゆく時代の中で、私自身のなりたい姿へとなるために、私は私を脚色していく。