やさぐれ日記

とりとめのない話をしています。

拾ってください

小学生のある日、数人の友達と放課後に公園で遊んでいる時、とある段ボールを見つけた。その段ボール箱は公園の隅にあり道路からは見つからないように、しかし、公園で遊んでいる子供たちには見つかるように置いてあった。昨日までは存在しなかった段ボール箱に気味の悪い違和感を抱いたことを子供ながらに覚えている。

何が入っているのだろうか、恐る恐る近づいて中を覗いてみると、中には薄汚れた子猫がいた。こちらを少し威嚇するように小さく唸り声をあげていた。

それから、友達と集まってその愛くるしい猫を触ったりはしたが、私は決してその生き物を飼いたいとだけは言わなかった。確かに猫は可愛かった、しかし安易な気持ちで飼いたいと言い、僅かにでも責任が生じることが嫌だったのだろう。結局、猫を数分ほど愛でてから、いつも通り友達と公園で遊んだ。数時間後、家に帰る間際にもう一度だけ段ボールの猫を見に行った。当たり前ではあるが、猫は変わらずにその場所にいた。私はその姿を見なかったことにし、猫から逃げるように全速力で自転車を漕いで自宅に向かった。

家に帰ってから、テレビを見ている時でも、ご飯を食べている時でも、その猫の姿が頭から離れることはなかった。公園に置き去りにされていた猫を見ていながら、何も救いの手を差し伸べなかった私も元の主と同様に猫を見放したのと同じではないのか。もしもあの猫が死んでいたなら、私のせいではないのだろうか。等と考え始めたらその思考が止まることはなかった。その日の夜はあまり眠れなかった。

次の日の朝、昨日遊んだ友達に猫の話をした。あの猫はどうなったのだろうか、知っているはずもないのに聞いてみたりなどした。小さな憂鬱を抱えながら授業を受け、放課後になるのを待っていた。放課後、一人で公園に行くと、もうすでに段ボール箱は消えていた。猫はどこに行ったのだろう。誰かが飼うことを決めて家に連れて帰ったのであればいい。きっと優しい家族がいたのだな、今後は愛されて生きてくれ。目に映るところからいなくなった猫の幸せを適当に祈ると、次第に憂鬱な気持ちが消えてった。随分と都合のいい性格をしているな、と今になれば思う。勝手に何もしないままに悩み、何もしないままに解決した。猫に対して抱いていた感情が同情によるものだったとしても、確かに猫がいなくなったのを見るまでは気が気ではなかったというのに。私の感情というのはどうも雑な作りをされているようだ。

ただ、その帰り道に浴びた風はとても気持ちがよかった。