やさぐれ日記

とりとめのない話をしています。

意識変革のお時間です

Twitterを3つほど垢消しした。疲れて生きている人々を眺めていたが、その言動に不愉快になることが増えてきて、精神が負に満ちることが多かったから。下にも書いたが、思考を負に引っ張られることに気づいたのだ。

 

さて、私は折に触れて、偉そうな人が嫌いだと言うのだが、理由に先程気づいた。

おそらく、相手に軽んじられることが我慢ならないんだ。優しくない言葉を吐き、私を傷つけてくる人を私は許せないのだろう。

これは自己中心的な思考から来るもので、それが私ではなく他人に向けた言葉であれば、この感傷は小さくなる。

他人がどうよりも私がどのように取り扱われているかが最も気になってしまう。恥ずべき習性であると自覚しているものの、現状のところ不愉快さを和らげる言葉できない。

私は他人の悪意や敵意を察しやすい方であると自認している。

幼少期より他人に毒づき、貶し、軽んじ、揚げ足取りを繰り広げていた。その思考パターンがどのように振舞うと他者を傷つけるかを無意識に悪意の計算結果である解答ごと丸暗記しているから、それを見せられると不愉快になる。毒を用いる者が毒に恐れるように、悪意も他者に用いた者ほど感づきやすくなるものだ。

しかし、現在の私は悪意を認めない。他人を傷つけようとした罪を赦さない。精神の貧しさから発生した悪意であろうと、強者の論理で唾棄する。こうした悪意に対する潔癖な態度を用いることで、場の雰囲気が落ちたとしても、潔癖であることを肯定したい。

状況により刻一刻と変化していく。人は変わる。現在の私は他人に潔癖な態度を要求する。やさしい人になりたい。その想いが他者の優しくない態度に怒りを発火させる。この火を、炎を絶やすことなく生き続けていきたい。

私は内面に燃え盛る炎を抱きしめながら優しくなる。もっと今よりも大人になる。だから貴方も優しくなれ。大人になれ。

自己中心な態度で世界を革命する。

だから、貴方も貴方の世界を抱きしめて、貴方自身の手で世界を革命してくれ。二度と弱者を不必要に悪意の手で傷つけないように。

 

・それでは聴いてください、andymoriで「革命」

 

・いま、友達にスタンプを送信しようとしたら、芹沢あさひが「冬優子ちゃんにも見せてあげるっす!」と爆音で喋り、照れ笑いしました。

 

Twitterをやめている途中なので、メモに書いた下書きを以下に羅列する。おまけのようなものです。

 

・会話中の相手の発言によって想起された話を見切り発車するも、喋っている最中に話題と大きく逸れた内容を口にしていると気づき、大慌てで尤もらしい結論を用意することが多く、すると気がつけば本来とは逆に、しっかりと考えて話している人のように振る舞っていることがある。

 


Twitter上で言及しやすいだけの話題というものがあり、今日は二次創作の是非についてだったけど、実際に会って話すと大した話にはならない。曖昧な定義で様々な解釈が可能なことをテーマに与えられると何らかを言いたくなってしまうけれど、言及しやすいだけの話題に触れても時間が浪費されているだけだし、私の好みではない時間の使い方だから出来るだけ話題を目にしたくない。

 


・昼食で焼き魚を食べたが、生臭さがあり、それが食品でなく生き物であったことを強調していた。やや心苦しくなりながら食べた。

 


・禁煙を解除して気づいたがマスクに臭いが染み付くと不快でならない。煙草は能動的に摂取すると良いが、受動的に摂取させられると鬱陶しい。この1箱を終えれば禁煙する。

→追記:また1箱買いました。

 


・昨日見たコントの日の中で「フルーツサンド殺人事件」というコントがあった。事件の被害者はフルーツサンドを食べており、それに毒物が入っていたのではないか、という設定だ。なぜ加害者はフルーツサンドを選んだのか。フルーツサンドはいつ食べればいいか分からない食品なのに……!と話は展開していく。このように、いつそれを行うのか分からないものって意外とあるなと思った。

  例えば、私のいずれ読みたいと思っている漫画のひとつにコジコジがある。しかし、コジコジはいまひとつ読むタイミングを用意できない。お金を払って休日に集中して読むほどの気持ちではない。できれば小学生の頃に友達の家に集合したものの、やることがなく手持ち無沙汰でふと友達の本棚から借りて読むのが理想だが、そのような状況は滅多にない。だから読むのにベストな瞬間がない。

  しかし、書いてて気づいたが、これらは敷居を低くすることが重要なのだろうと思う。フルーツサンドはいつ食べたって美味しいし、コジコジだって電車の移動中に数頁を読み進めていくようでもいいのだ。意欲を起こさず気軽になんらかを行える環境や精神状態を作って維持していくと、面白いものに触れる頻度が増えて、日々を愉快に過ごせそうだ。

 


・冷笑であったり皮肉であったりのツイートはインターネットで使い古されてつまらないという流れを感じているが、歳を重ねたために私の価値観が変化したからかもしれない。斜に構えた・過激な発言は個人として発信しなくても目にするだけで思考を変容させていく。これは思考の変容のみを避けるように意識してもおそらく内面に溶け染まっていく。

魂の波動を上げ、内面の清潔さを得たい。

今日はコンビニで干し芋を二袋買った。もちゃもちゃした食感、ほのかな甘みの優しさ。

 


・担当教員がとても優秀な方なので、教える内容も自分が知らなかったことはきちんと知らなかったと伝えてくれるんですよね。知らないに対するハードルを下げてくれるのでありがたいし、実験結果を持っていくと喜んでくれる。私もそのように人に接したい。

 


オタサーの姫になることはなく、オタサーの姫はさせられる存在で、他者の認知なくして生まれないし独立してそれ自体が存在することは不可能だ。ある環境において評価の高い人物というものは数多くいるが、取り立てて揶揄することでマウンティングし安心したい心理からこの言葉が生まれたんじゃないかと思う。性愛に対する嫌悪も関係してそう。