やさぐれ日記

とりとめのない話をしています。

平常通り運行しております。

どうしようもなく思えた修士論文もギリギリのところで書き終え、怯えていた審査会はなにごともなく突破することができた。

取得単位の計算を間違えていなければ、これにて無事卒業だ。

だから、今は学生から社会人への移行期間で、日常がふわりふわりと慈悲深く緩やかに進んでいる。

深夜にブログを書いても、用もなく街にふらついても、焦燥感を覚えることはない。

 

 

思えば、数カ月ほど何をするにも常に焦燥感があった。

社会へ出た後に進む道は作ったけれど、社会へ出るためのゴールテープが見えないほどに遠かった。

周りはずっと前を走っていて、あと数時間でゴールしないと時間切れで強制終了。

どうにか間に合わせないと、来年また頑張りましょうとスタートラインに戻される。

道では先にゴールした人々が談笑しながらこちらを見ている。息が詰まった。

 

しかし、このように当時は焦燥や現状に対する絶望があったが、生きることが辛くはなかった。

呼吸がしづらいなと思ったけど、それは酸素が薄いだけで、首は絞まっていなかった。

二月の後半には結論が下されて休憩できることが分かっていたし、それが留年を意味しても、「現状をどうにかしようと動いたのだから結果は仕方ないよ」と私自身に言い訳しようと思いながら、期限へと足を向かわせることができた。

それなりに平穏な精神のままどうにか過ごすことができた。

(とはいえ苦しいは苦しいので、助けてくれと叫び続けていた。叫んでいたときは大げさでなくピンチだったので叫ぶくらい許して欲しいと思っていたし、なんでみんなは苦しい時に叫ばないのかが今も不思議だ。)

 

以前からうすうす感じ取っていたことではあるが、今回の件で、私が真に辛く苦しく生きづらく感じることはいつも人間関係による悩みであり、なんらかの技術や能力の課題ではないと確信した。

卒業もした方が楽なのでできればしたいし、そのために多少の苦しみを負うけれど、これは人生のメインクエストじゃなくてサブクエストだと感じていた。

私にとって、人に向けられた/向かってしまった感情が最もどうしようもない。

悪化すれば眠れず、うつ状態になり、期限もない。

いずれまた来るだろう人間関係の苦しみが怖い。社会人となったとしても人間関係の悩み苦しみを持ちながら、日常生活を続けられる自信は全くない。

今まで数度あった人間関係の悩み苦しみ辛み期間は全てのことを放り出して時間が過ぎるのを待っていた。それができないのに大丈夫だろうか。未来の悩んでいる私はうまく生きて欲しいな。

 

などと言ったけれど、今はそのような未来が来る気配も全くないので、何の苦しみもなく日々を過ごしている。毎日楽しいです。いぇ~い。

鶏と卵の先にいます

タイトルを思いついただけなので内容は無いようです。

 

「でも、今から生み出せば問題ないでしょ?」

 

ブログを書くとすると今から何かを無理やり書くのは当たり前のことですけど、あえて強調するとちょっと強キャラっぽくなりましたね。

人生でも強キャラとして生きてみたいものです。

 

 

 

大見得を切ったところで何も思いつかない!

特に取り上げたい情動がない。

そもそも私はいつも大して何も考えずに日々を過ごしているから言いたい事なんて特にない。

どうしようか……?

 

 

・自分のツイートを読み返してみたらなにかいえるかもしれないので、今日は実験的にそれをやってみます。

なんとか書けてくれ、時間かけて下書きに戻すのはもう嫌だ~。

 

 

 これは卑怯なツイートですね。

大人という言葉が定義されていない上で大人になると表現したところで何も言ってないに等しい。

以下では齟齬を避けるために、大人とは親の庇護下から離れて社会生活を送っている人、親が死んでも生活を送ることができる人とします。

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23時過ぎに作業をしようとエナジードリンクを買いに行くと『ポケットにファンタジー』が脳内で再生された。

子どもがはやく大人になりたいと歌い、大人が子どもの頃に戻ってみたいと歌う、互いを羨むその歌詞を思い出して、そういえば私は子どもの頃に大人になりたいと思ったことはないと気づいた。

 

ポケットにファンタジーにおける子どもは自分の感情を具体的に描写する能力を持っていないため、なぜ自分が大人になりたいかを説明することができない愛らしい少年だ。

私の小学生時代を思い返してみてもそのような愛らしさを持ち合わせていなかった。

大人になりたいと思ってはいなかった。彼らが私たち子どもよりも大変であることはテレビで何度も見ていたし教科書で見てきたし、また大人たちが大人は大変であると何度も繰り返し語っていたからだ。

だから私は大人になりたくはなかった。大人とは大変な存在であるから。

 

また、小学生や中学生の私は、教師や親族、またクラスメイトの親が彼ら自身は大人であるという理由から、私たちを抑圧して管理し保護する対象として子ども扱いされることが我慢ならなかった。(この文章は主語と述語の関係がとりにくくて読みづらいな)

子ども扱いを受けると私たちのことは私たち自身で決めることはできなかった。全ての決定権はその場の保護者に委ねられて、私たち子どもはそれに従うことしか許されなかった。子どもには責任がない。そして権利もなかった。大人たちが何度も私たちの行動を選択するうちに、私は子どもは人間として扱われないことを知った。

だから私は子ども扱いされたくはなかった。子どもでいたくはなかった。彼ら大人と同様の『人間』になりたかった。

今もその気持ちはあまり変わらない。

子ども扱いされたくない。

大人になりたくない。

しかし、いずれ私は大人になるのだろう。

ネバーランドはここにはない。

もしかしたら、子どもは子どもでいられなくなった時に強制的に大人にされるのかもしれない。

大人になるのが先ではなく、大人としての場を強制されたときに人は大人とされる。

大人とされるから、大人になるのだ。

鶏と卵が先に生まれたのはどちらかと争っていることを私が知るずっと前から、私には大人の場が用意されていた。

先送りにしていた未来がもうすぐやってくる。

 

 

無理やりタイトル回収しようとしたが強引だったかな。

 

ちなみに高校生の頃には今からでも戻りたいです。もっかい文化祭してえ~。

 

それでは、また。

今すぐにでも千の風になってくれ

あの頃よく聴いていた音楽には多くの思い出が詰まっている。

今聴いている音楽もきっと未来の私にとってはタイムカプセルだ。

だから私は思い出の音楽をあまり聞くことができないし、ふとした拍子に懐かしい曲を聞くと私の情緒はぐわんぐわんに揺らされて、居ても立っても居られなくなる。過去の記憶たちが襲いかかってくる。美化された後悔ばかりの記憶が眼前に立ち込めてくる。

目に見えない音楽でそのようになる。

だから、写真などもってのほかである。

瞬間を切り取って保存する写真は編集された過去を再生する。

写真はいつ誰と何処でなにをしたかを切り取り、私はあまり写真を撮る方ではないのでなぜその写真を撮ったのかまでが脳内でリフレインする。

しかし、自分で撮影した写真は好んだ音楽と違い、街で偶然出会うことはない。日常の中でも写真フォルダを開かない限り、目にすることはないだろう。ならば問題ない。問題ないと思っていた。

windowsのスタートメニューを開くとPCのフォトが自動で写真を表示することは忘れていたのだ。

つまり、今日はPCをシャットダウンしようとスタートメニューを開いたところ見るつもりのなかった写真を目にして、思い出す予定のなかった記憶が掘り起こされてしまった。

このまま寝ると絶対に悪夢を見る。私には分かる。

だからとりあえずブログを書く。この感情をブログに押し込める。感情のお片付け。

 

 

追記:ここから先の内容は、私が私を慰めるためだけに書きました。

   未来の私のためでなく、現在の私のための文章です。

 

今の私にとって最も大切なのは、過去が存在しないと言い切ること、そして記憶は嘘だと断言すること。

過去というものは、現在において現実世界に存在しない。この世界に過去はない。未来もない。今という瞬間の連続である。瞬間の連続であるが、未来と過去は存在しない。過去はあったという形しかとらない。過去があるということはあり得ない。

 

ここから長々と過去が現在の世界において存在しないと書いたが、過去が存在していたことは否定できないし過去があったことに苦しんでいるから現在あろうがなかろうが関係ないと思い直したので消した。

そもそも私は時間にまつわる哲学を理解していないので過去が存在するかどうかは分かっていない。

しかし、そのようなことはどうでもいい。些末なことだ。

 

現在のあなたが過去の映像に対し、なんらかの記憶を呼び覚ました時、それは絶対に偽物の風景である。あなたが思い出す記憶は必ずどこか編集され、部分的に省略され、恣意的に加工されている。過去に現在の私たちは存在しない。記憶という不確かなモノだけがある。

あなたの記憶は脚色されている。嘘で塗り固められている。記憶はあなたが理解したい形に変質している。悲しめるように悲劇化されている。喜べるように美化されている。

そのような嘘になぜ現在の私が感情を弄ばれるのか。

 

そもこのような戯言を弄することが分かっていたのになぜ写真を撮ってしまうのか。なぜ写真を消さないのか。

なぜ私は過去が存在しないと言いたいのか。記憶は嘘だと断言したいのか。

 

あなたに私の気持ちが分かるでしょうか。

ほんの少しでも分かってくれますでしょうか。

 

 

 

もしも分からないなら、それ以上に喜ばしいことはないでしょうね。

怠惰な近況だい

文章を書かないと文字が書けなくなりそうなので更新します。

近況報告だ!

 

今やるべきこと、というか今年の六月くらいからやるべきことの最上位には常に研究があり、修士論文があった。

しかし、やってない。今日もやらなかった。

私は実験データもほとんどなければ文献調査も進んでいない。何もやっていないからだ。研究室の同期はもうすぐ書き終わりそうだと言っていた。

大ピンチである。

しかし、危機感はそれほどない。まあなんとかなるかと思っている。危機感のなさによる痛い目を見ないと私は学ばないのだが(そして痛みもすぐに忘れる)、都合のいい/悪いことに所属している研究室は放任主義だ。書けませんでした!と伝えたらすぐに留年という手筈になるだろう。

だから大ピンチなのだ。

 

でも、まあいいか。

 

どうせぎりぎりでなんとか卒業させてもらえるかの瀬戸際の修士論文を書き、審査会でグダグダな発表を行い、質疑応答では無知と不勉強な態度を突き付けられ、酷い恥をかくことになるだろうと考えている。

これはかなり楽観的な考え方で、実際の現状からすれば修士論文が完成する見込みは全くない。留年は絶対にしたくないので今からでも借りれる力を総動員して修士論文に取り組むべきなのだ。

それでも、ダラダラとした夏休み前半のような日々を送っている。

危機があっても今までの人生もなんとかなってきたという信頼してはいけない帰納法で未来をとらえている。

 

今まで私自身の怠慢による危機が何とかなったことには理由がある。

それは周りの行動を真似して自分で考えずに、同調して動いていたおかげであり、周囲と同様の行動がとれていない時点で今回の危機は楽観視してよいものではない。

しかし、未来の自分がなんとかしてくれるかもしれないことはやる気が起きず、また一週間以上先の危機に対する現実感がない。

頑張ってくれ、明日の私よ。

昨日と今日の私は駄目でしたが…………。

 

CCレモンが飲みたいな。 追記:買いました。

 

人によって言葉や創作の価値が変わることを書きたかったんですが、自分の考えがまとまっていなかったので今日はこの辺にしておきます。

もっとどうでもいい内容で更新していきたいな。

それでは、また。

意識変革のお時間です

Twitterを3つほど垢消しした。疲れて生きている人々を眺めていたが、その言動に不愉快になることが増えてきて、精神が負に満ちることが多かったから。下にも書いたが、思考を負に引っ張られることに気づいたのだ。

 

さて、私は折に触れて、偉そうな人が嫌いだと言うのだが、理由に先程気づいた。

おそらく、相手に軽んじられることが我慢ならないんだ。優しくない言葉を吐き、私を傷つけてくる人を私は許せないのだろう。

これは自己中心的な思考から来るもので、それが私ではなく他人に向けた言葉であれば、この感傷は小さくなる。

他人がどうよりも私がどのように取り扱われているかが最も気になってしまう。恥ずべき習性であると自覚しているものの、現状のところ不愉快さを和らげる言葉できない。

私は他人の悪意や敵意を察しやすい方であると自認している。

幼少期より他人に毒づき、貶し、軽んじ、揚げ足取りを繰り広げていた。その思考パターンがどのように振舞うと他者を傷つけるかを無意識に悪意の計算結果である解答ごと丸暗記しているから、それを見せられると不愉快になる。毒を用いる者が毒に恐れるように、悪意も他者に用いた者ほど感づきやすくなるものだ。

しかし、現在の私は悪意を認めない。他人を傷つけようとした罪を赦さない。精神の貧しさから発生した悪意であろうと、強者の論理で唾棄する。こうした悪意に対する潔癖な態度を用いることで、場の雰囲気が落ちたとしても、潔癖であることを肯定したい。

状況により刻一刻と変化していく。人は変わる。現在の私は他人に潔癖な態度を要求する。やさしい人になりたい。その想いが他者の優しくない態度に怒りを発火させる。この火を、炎を絶やすことなく生き続けていきたい。

私は内面に燃え盛る炎を抱きしめながら優しくなる。もっと今よりも大人になる。だから貴方も優しくなれ。大人になれ。

自己中心な態度で世界を革命する。

だから、貴方も貴方の世界を抱きしめて、貴方自身の手で世界を革命してくれ。二度と弱者を不必要に悪意の手で傷つけないように。

 

・それでは聴いてください、andymoriで「革命」

 

・いま、友達にスタンプを送信しようとしたら、芹沢あさひが「冬優子ちゃんにも見せてあげるっす!」と爆音で喋り、照れ笑いしました。

 

Twitterをやめている途中なので、メモに書いた下書きを以下に羅列する。おまけのようなものです。

 

・会話中の相手の発言によって想起された話を見切り発車するも、喋っている最中に話題と大きく逸れた内容を口にしていると気づき、大慌てで尤もらしい結論を用意することが多く、すると気がつけば本来とは逆に、しっかりと考えて話している人のように振る舞っていることがある。

 


Twitter上で言及しやすいだけの話題というものがあり、今日は二次創作の是非についてだったけど、実際に会って話すと大した話にはならない。曖昧な定義で様々な解釈が可能なことをテーマに与えられると何らかを言いたくなってしまうけれど、言及しやすいだけの話題に触れても時間が浪費されているだけだし、私の好みではない時間の使い方だから出来るだけ話題を目にしたくない。

 


・昼食で焼き魚を食べたが、生臭さがあり、それが食品でなく生き物であったことを強調していた。やや心苦しくなりながら食べた。

 


・禁煙を解除して気づいたがマスクに臭いが染み付くと不快でならない。煙草は能動的に摂取すると良いが、受動的に摂取させられると鬱陶しい。この1箱を終えれば禁煙する。

→追記:また1箱買いました。

 


・昨日見たコントの日の中で「フルーツサンド殺人事件」というコントがあった。事件の被害者はフルーツサンドを食べており、それに毒物が入っていたのではないか、という設定だ。なぜ加害者はフルーツサンドを選んだのか。フルーツサンドはいつ食べればいいか分からない食品なのに……!と話は展開していく。このように、いつそれを行うのか分からないものって意外とあるなと思った。

  例えば、私のいずれ読みたいと思っている漫画のひとつにコジコジがある。しかし、コジコジはいまひとつ読むタイミングを用意できない。お金を払って休日に集中して読むほどの気持ちではない。できれば小学生の頃に友達の家に集合したものの、やることがなく手持ち無沙汰でふと友達の本棚から借りて読むのが理想だが、そのような状況は滅多にない。だから読むのにベストな瞬間がない。

  しかし、書いてて気づいたが、これらは敷居を低くすることが重要なのだろうと思う。フルーツサンドはいつ食べたって美味しいし、コジコジだって電車の移動中に数頁を読み進めていくようでもいいのだ。意欲を起こさず気軽になんらかを行える環境や精神状態を作って維持していくと、面白いものに触れる頻度が増えて、日々を愉快に過ごせそうだ。

 


・冷笑であったり皮肉であったりのツイートはインターネットで使い古されてつまらないという流れを感じているが、歳を重ねたために私の価値観が変化したからかもしれない。斜に構えた・過激な発言は個人として発信しなくても目にするだけで思考を変容させていく。これは思考の変容のみを避けるように意識してもおそらく内面に溶け染まっていく。

魂の波動を上げ、内面の清潔さを得たい。

今日はコンビニで干し芋を二袋買った。もちゃもちゃした食感、ほのかな甘みの優しさ。

 


・担当教員がとても優秀な方なので、教える内容も自分が知らなかったことはきちんと知らなかったと伝えてくれるんですよね。知らないに対するハードルを下げてくれるのでありがたいし、実験結果を持っていくと喜んでくれる。私もそのように人に接したい。

 


オタサーの姫になることはなく、オタサーの姫はさせられる存在で、他者の認知なくして生まれないし独立してそれ自体が存在することは不可能だ。ある環境において評価の高い人物というものは数多くいるが、取り立てて揶揄することでマウンティングし安心したい心理からこの言葉が生まれたんじゃないかと思う。性愛に対する嫌悪も関係してそう。

ドライブ

目的がないまま旅をしているような気はしていなかった。

真っ直ぐと舗装された道路を、綺麗に整備してもらった新車で走っていた。この車は最新式で燃費もよく安全性も抜群らしい。

だから、何も気にせずにただアクセルを踏んでいた。

なぜこの道をひた走っているのか、疑うこともないままに、周りが走れと命じるままに。

道中ではずっと分岐点が存在していた。人々は少しずつ、僕らの走る道路から別の目的地へ続く方向へと進んで行った。彼らはハンドルを握って行き先を選択していた。

それでも大多数は僕と同じ道を走っていた。だから不安ではなかった。なにせこの道が1番しっかりと舗装されていているのだ。心配はない。そう思っていた。

しかし、最初は綺麗に敷かれていた路面もどんどんと雑に荒くなっていった。24年目へと差しかかるこの車の塗装は禿げ落ち、中古車で買い取ってもらえるかどうかという乗り物だ。際限なく積んでいたはずのガソリンの残量も、残りわずかのように感じてきた。

そういえば、僕らの集団はずっと小粒になっていた。初めは100人もいたのに80人に、80人が50人にと減っていき、今や僕の周りには数人しかいない。

ここでようやく気になった。

この道はどこに続いていくのだろう。たくさんいた人々はどこに向かったのだろう。

何も分からないまま今もアクセルを踏んでいる。

どこに着くのかと脅えながら。

色々と変わっていく

直近の三か月半を整理する。

好きな人に告白した!→恋人ができた!→恋人に振られた!

悲しい……。

 

ブログは先月に何度か更新しようかと思ったが、このブログには元恋人を想起させる要素が多分に含まれており、元恋人を想う度にどうしようもない寂寥感に苛まれたため、未練まみれの状態で書いて更新することなど土台無理な話だった。

だが今は、彼女に対して未練がないとまではいかないが、思い出すことも少し減り、別れた直後のように感情が抑えつけれず不安定な気持ちで歩き続けることもなくなった。

本当に、時間とは万能の治療薬である。

HUNTER×HUNTERでクラピカは自分の気持ちが風化することにのみ恐れると言っていたけれど、感情とはおそらく意識をしなければ、どんどん薄れていき、やがて透明になりそこにあったことすら忘れるものなのだろう。思い出も同様に消えていく。

そして、私たちは忘れられるから生きていけるのだろう。それならば、PCの中にあるファイルを削除するように、1から0へ簡単に移行できればいいのだけれど、人は機械ではないから薄れるのを待つしかない。時間は突然進まないからゆっくりと待つ必要がある。削除はできず早く薄れることを祈る他ない。

だが逆に、私はそのおかげで、薄くなった思い出を忘れないように元の色を復元し、そして自分でも気づかぬ間に少しだけ自己都合で脚色し、都合のいい思い出にして保存することもできる。

だから私は貴方のことを忘れずに、けれど私の都合のいいように変換して、貴方のことを保存し続けるのだろう。
そんな風にして貴方も私のことを時折思い出して欲しいと今は思う。

 

 

 

 

さて、ところで今日はこのように元恋人の話がしたいわけではない。

私の中にある偏見の話を書こうと思ったからブログを開いたのだ。

 私は、ある分野で才覚を発揮する人、特に言語を用いた文化的な素養のある人(例えば、日常会話が面白い人とか創作での構成や文章が上手な人とか知識が豊富である人とか)に対して、勉学面での頭の良さも素晴らしいものであると思い込み、また勉学が優れていないとあまり納得できずにサボっていたのだと判断する悪癖がある。

これは酷くくだらない価値観であり、唾棄すべきものだ。

そもそも、勉学面等の様々な所要で私が割いた時間と比べると、一つのことに多くの時間を割いた方が、ゲームのスキル振りとしては特化するに決まっている。

また、勉学ができないけれど言語を用いた文化的な素養があることは、全く矛盾せずに共存できることであるのに、それを私は心底から納得できていないのだろう。

そのことを治したいと考えてはいるが、なかなか頭の良さを神聖視することを治せないでいる。 

 頭が良い(そもそもこの言葉は意味の取りうる範囲があまりに広く皆が曖昧な定義のまま使っており、使用を避ける方が好ましい言葉だと思う)から他の分野でも素晴らしい才覚を発揮できると思ってはいないが、言語面で文化的な素養がある人は頭がいいと思ってしまっている。

 

現在は、様々な価値基準を持ち、偏見なく物事に触れることを要求される時代へとここ数年で急激に変化しているはずだ。

私はこれをいい変化だと思っている。

これに肖って私の中にたくさんあるだろうつまらない価値観を取り除いていき、優しい価値観を選んでいきたい。

このめまぐるしく移ろいゆく時代の中で、私自身のなりたい姿へとなるために、私は私を脚色していく。